ナディーリーダーの死 14
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(2008.12.28)
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プリヤンクは、シリニバサンのことを話した。 約1週間前に倒れて、ICUに入ったのだそうだ。 そんな時に、代行者のYさんも、インドに来ているのだそう。そして、プリヤンクに電話で 「仕事をやりなさい!やらせなさい!お金は払っている!(だか、払う、、、だか忘れました)」 と、言ったそう。しかし、プリヤンクは 「私の夫は死のうとしている。そんな時に仕事などできるわけがない。お金など要らない!私には夫が必要なの!」 そう言って、電話を切ったそう。もちろん、会ってもいないらしい。 私は思わず笑ってしまった。 「もう死ぬのに<<仕事しろ!!>>ってまたまた怒鳴りつけられるなんてね〜。シリニバサンも大変だ!」 仕事で来てたわけじゃない私は、長い姉妹のような付き合いのプリヤンクの信用もあって、病院に来てと呼んでもらえて、よかった・・・。世の中はお金じゃないよ。お金は死ぬ時には持っていけないからね。ないより、あったほうがいいけどさ。 プリヤンクはICUの値段15万ルピーだか、50万ルピーだか、、、(ちょっと聞き取りに失敗)、、、とにかく、45万とか150万で、インドからしたら、莫大。 病棟には、顔見知りのシリニバサン・プリヤンクの両親・親族たちが集まって涙をこぼしながら、死の瞬間を待っているだけだった。 プリヤンクに病棟の横の空き地にて、お弁当のフィッシュカレーをご馳走になる。シリニバサンのアガスティアの館でも、よくご馳走になったなあ・・・・。 大勢での寂しい食事。 |
ナディーリーダーの死 13
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(2008.12.27)
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私は、前日に旅行会社の人にアレンジしてもらった車に乗って、病院へ出かけた。 前日、旅行会社の人がタミル語でしゃべって、それを英語で説明してくれた内容では ・ここから5kmぐらい離れた、なんたら病院にいる ・ICUに入った ・ブレイントゥーマ?トーマ?チューマ?である ・もう長くはない という事だけ。 脳の何???ナンなの?? 単語を調べたいんだけど、単語馬鹿な私は、聞き取ってもスペルを出せなきゃ、意味が調べられない。いろんなバージョンで打ち込んでも出てこなかったので、そんな時は国際電話。 「脳の病気らしいよ。ブレイントーマ?トゥーマ?って言ってるんだけど、スペルがどうしても出てこないから、意味が分からない。調べて!」 brain tumor 彼は、脳腫瘍だった。 2005年の秋、私は彼に病名を言おうとした 「キャンサーじゃないのか?」 脳に癌が出来て、それが目の神経を圧迫して、目が見えなくなってるんじゃないのか?????と、言いたかった。 「あなた、癌じゃないんですか?」 と、さすがにわたくしでも、聞けなかった。あの時点での開頭手術は、多少しか、運命は変わらなかっただろう。 2005年の5―6月ごろ、シリニバサンは、他社の仕事で、秋田や東京に行った時、眼科医が彼に顧客(&友達?)として会っていたはずだ。日本のめがねを持っていた。そこで、気が付いていたら、、、。普通は脳が原因・・・とは、思わないかな。 私の乗った車は、病院に向かった。 シリニバサンの妻がそこでは待っていた。私を見るなり、、、涙をこぼし、抱きついた。 「一週間前に倒れて、ICUに担ぎ込まれた。数日前にICUから出たけど、、、。彼に会ってあげて・・・。もう、長くないの・・・・・」 そう言って、病室に案内された。 私のインドの姉妹の夫は、ぼろぼろの病院、ぼろぼろの病室にいた。とても、重病でICUから出たような人間に与えられる場所とも思えないような、簡素なところに彼はいた。ベッドも小さくて、マットがあるかないかの鉄の板のベッド。学校の教室のような所。これがインドの病院。 そこにシリニバサンは、輸血したまま、つながれていた。やせ細った彼の体中には紫斑が出ていた。彼は、小さくなっていた。35―6歳くらいなのに、おじいさんのようだった。小柄ながらにも筋肉があるなあと、昔思った面影はない。 「Hi」 彼は、私が来た事に驚いていた。そしていつものように 「Asuka−San〜。 How are you?」 私のほうを見ながら、笑いながら静かに言った。しかし、彼の大きな透き通った、茶色の瞳は、何も見ていないのだろう。私の顔もほとんど映っていないんだろう。 「Fine,very fine」 でも、、、私は、何て言葉をかけていいのか、わからなかった。静かな時間が流れた。日本語でもわからないのに、英語ではさらにわからない。 「Are you OK?」 咳き込む彼に、OKなわけないのに、、、。そんなんしか出てこない。もう、死ぬ人間になんて言えばよかったんだろう?。 長居するのも何なので、お正月に行った日本の京都のお寺のお守りを渡し、病室を出た。 (彼が最後の時に、苦しみませんように・・・) 「また、時間があったら来るね」 おそらく、、、最後だとわかっていた。不思議と彼が死んでいく事に対して、悲しくもなかった。私は2005年の秋に、彼が死んでいく事を悟っていた。最後の食事をしながら、散々、気がつかれないよう泣いたのだ。 「私は、今は、別の仕事で来ている。その仕事をやり遂げなさい。それが私の仕事だ。彼のためには前回、すでに泣いただろう?」 そう、思っていた。この彼の最後の時に、このインドにいて、彼に会えていることがすでに、プレゼントだ。本当なら、なかった時間。これ以上、何を望む?十分だ。そこにいても何も出来ない。私がそばにいる時に、息を引き取るのも、シリニバサンからしてみたら、、、、、。不本意だろうし、私もそんなシリニバサンは見たくはない。これでいい。。。 私は病室を私の姉妹・妻のプリヤンクと共に出た。 |
ナディーリーダーの死 12
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(2008.12.26)
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2006年1月。 私はひそかにインドはチェンナイ(CHENNAI)に降り立った。 このころの日記(2005年後半〜2006年一月)を見ると、急ピッチで自分の仕事である仮翻訳を仕上げて、翻訳チェックにまわしてる。 そして、連絡はmiyajihaindia@yahoo.co.jp に送ってね!ってしてある(まだ、このアドレスは生きてるのだろうか??最近、ログインしてないなあ) そう、この辺でインドにこっそり出かけた。 私はインドで、ある旅行会社のおじさんとミーティング。そのとき、、、、。ナディリーダーに電話をしてもらった。タミル語のほうが早いから。 すると、旅行会社のおじさんは 「彼はもう、助からないよ。奥さんがそう言っている。ノーモアー」そんなことを言った。 私の仕事のパートナー。 彼がカンチプラムで最後の仕事をしたときの、彼の最後のお客になり、 彼が独立したときに、彼の最初のお客になった。 私の「純粋にただただ真実が知りたい」という思いが強すぎたために、 追求に負けて、彼は「アガスティアの葉の作り方」を話した。 彼は彼の仕事のタブーを犯した。彼は真実を話すべきではない人間なのだ。それが彼の仕事のはずだ。 彼の仕事は、 真実を話すことなく、お客様を騙し、お金を取る事、、、、。夢を与える事。神の言葉のように未来を語り、そのときの悩みを取り除き、道しるべを付けてあげる事。 それを破った。純粋さは、時に人を傷つける。良心との葛藤をもたらさせる。彼は自分の良心には勝った。が、自分の仕事をやり遂げれなかった。霊性面ではよい選択をしたはずだ。私はそれだけは自身を持って、言える。彼は正しい。 しかし、彼は恨まれた。彼だけが、日本中のお客様に恨まれた。 「カンチプラムは贋物だ!」 お客さんが、館を変え、代行者を変えして、去っていったのを肌で感じていた。しかし彼は、受け入れていた。だから、後半、ほかの代行者が 「MIYA−JIMAの仕事はするな!じゃなきゃ、お前とは仕事はしない!」 と、言って迫ってきた話しも、私にはしないだろう。 その彼が死んでいこうとしているそのときに、私がインドに再びいる・・・・。 不思議なものだ。 運命は決まっているのか、決まっていないのか、、、、。 私はただただ、決まっているとしかいいようがない。 上記のような巡り会わせ。一日、私がインドに行くのが遅かったら。 一日、彼がカンチプラムのナディリーダーを辞めるのが早かったら、、、、 これらすべてがつながってこない。 私が真実を知りたいと、望んだから、 彼は私に、すべてを話した。作り方も・・・・・。 私はこれをこのまま、死ぬまで封印しようと思っていた。 が、 彼も死んで約3年経って、考えが変わってきた。 この3年の間にも、まだまだ、いっぱい開いている人もいるようだ。とある人を筆頭にした、なんたら会なる人たちが、ナディリーダーを呼んで来て、葉を3カンダム(1+13+14)を15万で開かせているらしい。また、そのカルマの解消は、その主催者と、なんたら会の影響か、めっちゃ高い。50〜100万単位でこちらに相談が届く。本物でしょうか?高くないですか?? いい加減にしてほしい!本物はない!。おまけに十分、ネームバリュー料まで加算されている! 本物だというなら、100万出して、幸せを買えばいい。本物だというなら、それを写真にして持ってきてほしい。私が自腹でインドに行って、大学で調べてもらって「本物」と証明してもらってあげよう。もし、贋物なら、もちろん、代金は請求するが自信があるなら問題ないでしょう!! ここまで待ったが、そこまで自信もって私に写真を差し出す代行者(や一般の人)は現れなかった。実際そんなこと、されたら困る人ばっかりだ! よって、このままお墓に持っていったら、まだまだ、被害者が出るようなので、作り方も載せる。 昔、お客様の一人が、 「そこまで、言うなら作り方を教えてください」そう言った。 遅くなったが、私の気分もやっと、落ち着いてきたので書いてもいい心境になったようだ。 私は、翌日のみ時間があった。カンチプラムのナディリーダー・シリニバサンに会いに行くからと、旅行会社の人に車を手配してくれるよう頼んだ。 多くの人がシリニバサンを恨んだ。 私には、それが耐えられなかった。彼は自分の運命のまま、仕事を選べず、あの仕事に入った。 私と会わなければ、真実を話していない。 しかし、彼と私の運命だから、仕方がない。私も彼も信用を失ったが、それでいい。ほかの多くの人は、いまだに誰も証明してくれないからね。 http://www.ac-to-wish.com/ のように、見せなきゃ、知らなきゃ、わからない。 どうせなら、パンドラの箱でも開けるから、ほかの人もすべてを真実を知ればいい。そこには、「あ・い・う・え・おの(ひらがな)表&双眼鏡&ルービックキューブ」が入っている。その上で私が調べた事実を判断すればよい。 |
ナディーリーダーの死 11
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(2008.12.25)
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2005年の12月のクリスマスあたりに、日本からインドに電話をしてみた。 「ハーワーユー?」なのかな? 金銭的なことを話そうと思って・・・。いつ、返すんだ??? でも、、、、 そんなこと、言えずに終わりました。 「日本で、翻訳しているよ〜。寒いよ〜」 そんなことを話したと思います。 このとき、2006年1月の急遽の別件でのインド行きが、、、決まりつつあったのです。 |
ナディーリーダーの死 10
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(2008.12.19)
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2005年の9/10月。 ナディリーダーは今にも死にそうで、また、お金にも困っていた。 そして、ヴァディスワランコイルにある有名なアガスティアの館の翻訳者は、私に 「僕はもうだめだ、死ぬ、自殺をする・・・」 と、泣きついてきていた。私にどうしろと言うんだ・・・・。 今、この頃の連絡掲示板をみると、遠まわしで何かが、書いてある。3年経ったので、そろそろ真実を載せておこうと思ったのだ。 カンチプラムのナディリーダーが、最初に偽物作ってます告白をしたから、彼は非常に恨まれた。その結果が、これだったのだろうか? 真実を話さなくても、、、、この結果だったのだろうか? 分からない。 |
ナディーリーダーの死 9
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(2008.12.15)
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ナディリーダーとの食事後、ホテルに送ってもらった。 昔は100rsのホテルに泊まっていたけど、ちょっとリッチになって、350rsのホテル。 このナディリーダーが、カンチプラムの館で最後の仕事をした日、私に話があるからと、やってきたときは100rsのホテル。 彼のカンチプラムの館での最後のお客であり、 彼の独立後の最初のお客になり、 家族ぐるみでの友人へとなっていた。 その友人が、奇病にて死んでいこうとしているのだ。不思議な時の流れを感じた。 |
ナディーリーダーの死 8
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(2008.12.01)
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彼は夕方、運転手とともに現れた。 借りた金で、リッチにTMホテルにディナーに行くんだろうか???? という、疑いは晴れた。車は、国道の方に向かった。大きな病院近くの廃墟前に車は止まった。 (金もないのに)拉致られる?! なんて、思わなかったこともないが、廃墟の中に入ると、普通のおじさんが、レストラン?をオープンしていた。 それが、地面にビニールでマットが落ちないようにちょこっとあんであるパイプベッドのマットなしが、並んでいて、ベッドではさむように真ん中に木の長い板がおいてある。ライトもないので薄暗くかな〜〜〜り、怪しい。屋台より雰囲気はひどかった。 が、味は思いのほか、おいしかった。 しかし、目の前の彼は、そのぼろいレストランに入るのも、ベッドに座るのも、すべて、ドライバーの介助が必要だった。真っ暗なので、歩けない・・・。彼の目は何も写していない。食事をするのも、つらそうだった。 その彼の前で、私は泣きながら、ご飯を食べた。ぼろぼろぼろぼろ涙を流してることなど、彼はわからない。彼の隣で一緒に食事をしているドライバーだけが、悲しそうに、静かに、食べていた。 ドライバーさんのような人が来てたけど、誰も知る人に会うことない場所。私のような観光客では、絶対に知ることもない。TMホテルより、何も持たない、命の期限も迫っている彼に、よっぽどふさわしい場所だ。そんなことを考えていた。 あんだけ食べて、種類もあって、おいしくって、3人で食べて、100rs以内だった。びっくりした。その伝票の紙を持ってきた料理人。足りるだろ?的につりはいらないと100rsを渡したナディリーダー。(ぎりぎり100rs超えなくてよかった。)料理人は不満げだった。ナディリーダー的にはもう少し、安くて、おつりもあまると感じていたのだろう。 おいしいけど、悲しい食事だった。 |
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